2008年11月6日木曜日

内なる論敵廿楽さんと① 松下育生の詩

改行屋・廿楽商店 2008年11月05日 12:20
もっていない人はどうするんですか?  いいですよね。私もこの詩については、だれかれ構わず捕まえて感想を言いたくなります。こういう言葉を引用できる人はあまりいない気がします。文学言語や偉い人の言葉を引用するとか、ゲージツ家のだれそれに触発されたとか、そういう発想が現代詩には多くて、時々閉口します。詩人はやっぱりすかしてるやつが多い。
孤穴の孤児 2008年11月05日 14:34
名前と顔を思い出せない、というところに私などは68年ではないですが、そのあたりの無名性というんですかね、だれかれじゃない人のすっくと立った姿を思い浮かべて励まされます。その反問の力強さは、そこからも来るのだと思います。 松下さんにはとにかくどこでこの「芸」は使うべきだという射程がちゃんとあるんだなというのを感じ、学びたいと思います。
森川雅美 2008年11月05日 20:52
しかし、詩は芸では詰まらんでしょ。 もっと無意識が欲しいし、もっと誠意も欲しい。
改行屋・廿楽商店 2008年11月05日 21:31
芸と無意識、誠意は対立概念ではないですよ。芸というのは、やっぱり見下され差別されてるんですね。
孤穴の孤児 2008年11月05日 21:33
無意識はともかく、芸はある程度必要かなと私は思います。お座敷芸は人を感動させませんが、芸はあった方がいいと思います。誠意はみんさんあると思いました。無意識よりも錯乱は必要かと思います。詩集ではないですので、書き手の長く書く練られた芸は十分に読みとれる企画だと思いました。
改行屋・廿楽商店 2008年11月05日 21:58
「芸」ということはもう少し考えられていいと思っています。明治期には高橋由一の油絵なんか、お寺のご開帳の見世物で展覧されてたわけで、こういういかがわしい芸のありようなんかに私は興味があります。「芸能」といった方がいいのでしょうか。
森川雅美2008年11月05日 23:29
技術は何のために有るかと考える時、果たしてその技術が本当に表現の根本に根ざしているのか、と考えます。 芸が表面に浮き上がるのはやはり良くないと思う。 確かに、本当に優れた芸というのは無意識もはらむし、誠意もある。 しかし、100年ちょっとしか歴史のない、自由詩にそれだけのものをはらむだけの芸があるか。 松下さんの詩はどうしても、一番重要なところを回避しているように、思えてしまう。 ああそうだね、と思ってもそれがより普遍的なものとして、体の中に落ちてこない。
改行屋・廿楽商店 2008年11月06日 00:01
表現の根本、とか、重要なところ、とか、普遍的なもの、という言い方が正直言って私にはよく分からないのです。 もっていない人はどうするんですか? という言葉に私は敏感に反応しますが、ここにはたぶん「表現」「重要」「普遍」という系とは違う言葉の脈があります。詩は概念や観念のアリバイではないので、そこでは言葉は詩の言説として厳密に振舞われるべきだと思っています。それが私の考える芸です。

同人の谷口さんのミクシから無断引用させてもらいました。ごめんなさい。
今回は森川が説得されてしまって終結。
確かのそんなに悪い詩ではないかもしれない。

1 件のコメント:

森川雅美 さんのコメント...

 どうも納得がいかない。まず気になるのは、この詩がうますぎること、滑らかすぎること。何処か嘘っぽく思えてしまう。
 そう考えていくと、確かに「持ってない人はどうするんですんか」という言葉はいいかもしれない。しかし、この言葉が十分に生きているとは思えない。それはこの詩が物語に寄っていることに、起因するのではないか。初めの発見を、わかりやすい物語の文脈に、収めたことに問題があるのではないか。だから、一見深そうなのも物語の中であり、無意識もまたしかりである。言葉の無意識にまで届いていない気がする。たぶん、最初の発見を充分に熟成させることなく、散文的な意識で詩を組み立てたのだろう。もし、そうでないなら、もう少しざらついた感触が残るはずである。詩は物語るものではなく、語ることそのものといえるのでは。確かに鮮やかではあるが、それは手品師の手さばきともいっていい。騙されたい人は騙されるが、いざ種が分かってしまうと、興ざめである。何か分かっていることから書かれている気がし、詩の言葉の力はこんなものではないぞと、思ってしまう。こんな詩に騙されたくないぞとも。詩はマジックではなくミラクルである、ともいえるかもしれない。