2008年11月7日金曜日

ミクシィに書き込んだコメント

森川さんの松下育男さんの詩のコメントについて、ミクシィで以下のように反論しました。引用します。

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30年前位だったら、森川さんの話に納得したと思います。
「現代詩」の世界(手帖の世界、かな)では、森川さんの説は常識化していて、その中では多数派でしょうね。妥協する、しない、ということを言う必要もなく支持されると思います。
難解な詩、ざらついた詩、無意識の詩、はたぶんスタイルとして誰でも書けるようになっています。現代詩の世界ではそういうものへの許容度も90年代以降、とても高まっています。
私はそういう詩もいいし、そうでない詩もいいと思います。ただ、その作品がよければ、という但し書き付きのことですが(いかにも現代詩っぽい詩でもわたしの言う意味での芸はもちろん必須です)。
吉本の「修辞的現在」では、どの詩も等距離で切実さから離れたというようなことが書いてありました。その時点で、難解な詩もうまい抒情詩も等距離で選択可能になったと思います。
ですから、その双方を天秤にかけて論じる二分法は急速に説得力がなくなってきています。
それと、松下さんもそうですが、一度詩を離れた人がもどってきている、という現象が最近ありますよね。昨日、奥田春美さんの「かめれおんの時間」を読みましたが、彼女もそうらしい。古い時間が現在へ逆流しているのかもしれません(反動、という意味ではありません。現代詩に抑圧されてきた無名の声の反響みたいなものかもしれません)。
ネット詩(その評価はさまざまでしょうが)も含めて、現代詩という土俵がゆらいできているかもしれません。
くりかえしますが、森川さんの言うような詩にも、松下さん流の詩にも面白いものもあれば、面白くないものもある、ということです。
だからこそ、芸(詩の言葉の立ち居振る舞い)はその双方の分野で問われなければならない、と思っています。

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